ひみつのページ (その3)

山の思い出

この下手クソな音楽は、私がリアルタイムで演奏、収録したものです
The Hyotan Band (C)1968


■真冬の奥多摩、海沢谷から大岳への遡行■
■木暮理太郎に憧れて、三つボタンのブレザーとニッカボッカー着ています。昭和初期の写真では有りません。念の為...■

 

 初めて登った山は、奥多摩の山だった。大岳山や鷹の巣山の頂上に立った時、遠くに見える高い山を見て、行ってみたいと思った。その山は、雲取山(東京都最高峰)だった。
 そして、その頂上に立った。頂上から続く、雲海上の稜線は、長野県まで連なる奥秩父の山々だった。奥秩父の最高峰に行ってみたいと思った。

 



■正月の金峰山頂上■

 奥秩父最高峰の金峰山頂上(本当は北奥千丈岳が一番高い)は、森林限界を超えた岩山だ。眼前に遮る物は何も無い。展望は360度の大パノラマだった。目の前に広がる南アルプスや八ヶ岳を眺め、つぎは、そこだ!と決心をした。

 

 
■(左)中岳のコルにて、自慢のカメラ(Nikon)を手に...、(右)赤岳を見上げる私■

 そして、南アルプスの甲斐駒ヶ岳に登った。しかし、駒ヶ岳の頂上は雨。視界はゼロ。悔しいけれど、下山。帰路の車中で、天候は急速に回復し、八ヶ岳が眩しく見える。ええいっ!とばかり、電車を途中下車。そのまま、八ヶ岳の最高峰、赤岳へ登ってしまった。遠方に見える、北アルプス、槍ヶ岳、穂高連峰を見て、これが自分の求めて居る山だ!と思った。......登山の「はしご」?をするなんて、この頃は余りにも、若かった。

(冬期の赤岳の写真は、こども診療所のサービスページに掲載しています。)

 


 
■(左)上高地、河童橋の横にて岳友と。 (右)北穂高岳頂上の私。後ろの山は前穂高岳と吊尾根■

 初めての北アルプス、上高地入りは、残雪期だった。いきなり雪のアルプスとは、ちょっと無謀だったかもしれない。しかし、岩と雪の山の美しさは、感動の域を超えるほど、素晴しかった。この頃から、体力勝負の山から、テクニック系の登山に変化して行く。
 この頃の両親が、私をどれだけ心配したか、今、子供を持って、はじめて解る様になった。

 


■眼下に広がる、涸沢カール
(カールとは、氷河が削り出した地形の意味)と雪崩を避ける為、一箇所に密集して張られたテント群■

 私の山行は、何時もテント持参だった。山に入ったならば、自分の力だけで計画を遂行したかったからだ。だから、荷が重くて、辛くて、景色すら、じっくり見る事が出来ない事が多かった。しかし、計画通りの行程を消化した時の感動は、また格別のものだった。

  


 そして、ルートファインディングを必要とする、岩場のルートを目指す様になった。最初の山行は、前穂高北尾根だった。
 見上げる岩壁は、まるでオーバーハングし、自分の上に覆い被さっている様に見えた。錯覚だ。奥又白池が、真下に見える。浮き石が、足元から宙に舞う。そのまま真下に吸い込まれていった。
 顔面から血の気が、引いて行くのが解る。指先は冷たいのに、汗ばんでいる。
 こんな臆病者だったから、一度も事故に、遭遇しなかったのかもしれない。

 この頃から、写真をモノクロで撮り始める。カラー写真より、その方が奇麗に見えたからだ。

 


   

社会人になると、自由な時間が制限された。近場の丹沢や、夜行日帰りが可能な、谷川岳へ行く様になった。

 

丹沢、水無川本谷遡行終了時の記念撮影に収まった私。

 そして、家庭を持って、山から引退(?)。本当は、夫婦で山に登りたかったが、妻は坂道が有るだけで、キャーキャー言うので、とても、登山どころか、ハイキングすら駄目だ!

 今の私は、腹が出て岩登りどころか、そこいらの丘すら、登れないかもしれない.......(^.^;;

しかし、いつかはカムバックするのだ、と思っているのだが....?

wrote 1998/9/20 and 1998/10/19
music 1999/5/20


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